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量子力学と唯識論が示す「世界の深層構造」

量子と唯識論の違いを説明

― 異なる道を歩んだ二つの知が、本質へと収束する瞬間 ―

前回の記事で、私は
「量子力学の発見が唯識論と驚くほど似ている」
という不思議さと感動を書きました。

観測しないと状態が決まらない世界。
主体と客体を分けられないという量子の本質。
そして唯識論の「識が世界を成立させる」という構造。

まるで科学と哲学が、
別々の山道を歩きながら、なぜ同じ本質にたどり着いたのだろうという
謎に強く興味をひかれました。

しかしその後、さらに深く調べていくと
もうひとつ大きな気づきが生まれました。

両者は“似ている”だけではなく
「世界の本質を別の入口から発見した」
という関係なのではないか?

この記事では、この気づきのプロセスを
読者の皆さんと共有したいと思います。


抽象度の高さは「曖昧さ」ではなく「本質への接近」だった

唯識論を調べていると、
その抽象度の高さに驚かされます。

認識の構造を8段階に分け、
無意識(阿頼耶識)まで体系化し、
主客が分離できないことまで論じている。

しかし私は途中でこう思いました。

「抽象度が高いということは、
どのようにも解釈できる自由さを持つということではないか?」

ところが調べるほど、この考えは誤解だったと気づきました。

唯識論は
“曖昧だから幅広く解釈できる” のではありませんでした。

むしろ
認識の深層構造を驚くほど精密に捉えているため、
多くの学問分野と自然に接続できる
ようなのです。

つまり「抽象度が高い」とは、
世界の本質に近い場所を扱っているために
“応用範囲が広い” ということ。

唯識論が量子力学に見事に響くのも、
この「本質レベル」での一致によるものだったのです。


量子力学側にも“哲学が必要になる”深い理由があった

一方の量子力学。

これは現代科学が積み重ねた事実から生まれた理論であり、
唯識論とは全く違う世界の産物です。

しかし量子の世界に踏み込むほど、
科学者たちはこう言わざるを得なくなりました。

  • 物質は、観測しないと状態が決まらない
  • 主体(観測者)と客体(現象)は分けられない
  • 世界は固定した“物体”ではなく“プロセス”である

つまり、

量子力学もまた、
世界の深層構造に触れたとき
哲学と同じ場所へたどり着いてしまった

ということです。

これは本当に驚くべき現象ですよね。


両者は「どちらが優れているか」ではなく「どちらも深層を掘り当てた」

唯識論は心の内側から、
量子力学は物質の外側から、
まったく違う道を通って世界を探求してきました。

にもかかわらず——

  • 主客の非分離
  • 相互依存性
  • 連続するプロセス
  • 観測・認識が現実を成立させる

という本質的構造で、
二つの理論は同じ方向へ向かう。

これは、
哲学と科学が世界の深層で出会う瞬間
と言えます。

そしてこの構造は、
「どちらが正しいか」
「どちらが優れているか」
という話ではありません。

むしろ、

両者が、本質に近い構造に触れたからこそ、
結果的に似てきた。

という理解が自然です。

これは知の世界では最も美しい現象のひとつではないでしょうか。


世界の本質は「物」ではなく「構造(はたらき)」なのかもしれない

唯識論と量子力学を並べてみると、
世界の深層についてこんな仮説が浮かび上がります。

世界は“固定した物質”でできているのではなく

“関係”と“プロセス”と“認識”の三つが重なった構造でできている

この視点に立つと、

  • 量子の奇妙なふるまい
  • 唯識の主客不二
  • 意識の働き
  • 物質と情報の境界

これらが別々の話ではなく、
ひとつの深層構造の異なる表現なのかもしれない。

そう考えると、
両者の一致は偶然ではなく、
世界そのものが、そういう構造を持っているから
と考えたほうが「自然」なのです。


異なる道が同じ場所へつながるというロマン

唯識論は2000年前の思索。
量子力学は100年前の科学。

時代も文化も方法もまったく違うのに、
同じ深層へ向かって収束していく。

思考の道は違っていても、
世界の本質にはたったひとつの構造があり、
そこへ向かえば自然と一致する。

それは、
人類の知性が積み重ねてきた美しい軌跡
そのものではないか——。

そんな思いを、この記事を通じて
読者の皆さんと共有できれば幸いです。

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