主舞台の外側から見えるもの
お正月になると、テレビには箱根の山が映し出されますね。沿道からの熱い声援、襷をつなごうと必死に走る学生たちの表情。東京箱根間往復大学駅伝競走――箱根駅伝です。

多くの人にとって、それは「日本一有名な大学スポーツイベント」ではないでしょうか。
でも、少しだけ視点を変えてみると、この大会がすべての大学に開かれているわけではないことに気づかされます。
出られない大会なのに、誰もが知っている
箱根駅伝に出場できるのは、関東学生陸上競技連盟に所属する大学だけなんです。地方の大学は、制度上、どれほど実力があっても出場することができません。

それでも不思議なことに、地方大学の選手たちも、指導者の方々も、箱根駅伝のことをよく知っています。
区間タイム、常連校の名前、エース選手の走りぶり。まるで「自分たちの大会」であるかのように。
出られないはずの大会が、いつのまにか競技人生の基準として、心の中にしっかりと置かれているんですね。
目標ではなく「物差し」になる存在
地方大学にとって、箱根駅伝は目標ではありません。目指しても、たどり着けない場所だからです。
それでも、こんなふうに思うことがあります。
「あの区間を、あのペースで走れるのか」
「全国トップ層とは、これくらいの力の差があるんだな」
「ここまで来ると、こんな景色が見えるんだろうな」
そうした競技力の物差しとして、箱根は常に意識されているんです。

「自分は今、どこに立っているんだろう」
それを測るための、ひとつの基準として。
地方大学の選手たちは、目標にはならないものを基準にしながら、それでも別の舞台で走り続けています。
それでも、主役になれる場所がある
地方大学には、地方大学なりの舞台があります。
全国の大学が集う駅伝大会では、地方大学が主役になる瞬間も、確かにあるんです。
沿道の声援は近く感じられて、応援には土地の匂いが混じっています。
テレビの向こうに映る「全国」ではなく、自分たちの足元の地面から立ち上がる「全国」。
そこでは、自分たちの走りが、確かに誰かの記憶として残っていきます。
箱根とは違う形で、走る意味が身体に染み込んでいくんです。
主舞台に立たなかった人生と重なるもの
この構図って、社会に出てからの人生にも、とてもよく似ているなと思います。

会社にも、こんな役割がありますよね。
- 花形の仕事
- 名前が前に出る役割
- 評価されやすいポジション
その一方で、
- トラブルを未然に防いでくれる人
- 工程を黙々と守り続ける人
- 誰にも気づかれないまま支えてくれる人
も、確実に存在しています。
多くの人は、後者として長い時間を働き続けるものです。
地方大学から見た箱根駅伝は、そんな「主役ではなかった時間」を否定しない視点を、静かに教えてくれているような気がします。
出られなかった、という事実のその先
箱根に出られなかった。
主役になれなかった。
若い頃は、その事実がとても重く感じられるかもしれません。
でも、時間が経つにつれて、その意味は少しずつ変わっていくものです。
「出られなかったから、別の大会でしっかり走れた」
「主役でなかったから、全体が見えるようになった」
「表に出なかったから、長く続けることができた」
地方大学の選手たちが見せる淡々とした強さには、自分の場所をちゃんと知っている人間の力があります。
最後に
地方大学から見た箱根駅伝の意味を、ひとつの言葉にするなら、きっとこうなると思います。

人生は、どの舞台に立ったかより、
どの場所で、走り続けたかなんだ。
箱根駅伝は、光の強い舞台であると同時に、その外側にいる人たちの人生をそっと照らし返す存在なのかもしれません。
お正月に箱根を眺めながら、自分が走ってきた場所を、少しだけ誇らしく思えたなら。
それもまた、この大会が持つ、もうひとつの価値なんだと思います。