――SNS時代に、日本語があらためて持ち始めた力――
「言霊(ことだま)」という言葉に、どこか心が静かになる感覚を覚えることがあります。

それは強く信じているからでも、迷信を受け入れているからでもなく、もっと曖昧で、もっと個人的な感覚かもしれません。
たった一言で場の空気が変わってしまった経験。
何気なく発した言葉が、あとになってずっと心に残っていた経験。
誰かの一言に救われた朝もあれば、何気ない言葉が胸に刺さって眠れなかった夜もあったかもしれません。
多くの人が、人生のどこかで、言葉の不思議な影響力を体験しているのではないでしょうか。
この記事では、言霊を特別な力として持ち上げるのでも、迷信として切り捨てるのでもなく、日本語が言葉をどのように扱ってきたのか、そしてそれが今の時代にどうつながっているのかを、少し立ち止まって考えてみたいと思います。
言霊は迷信ではない?
近代以降、言霊はしばしば「迷信」として語られてきました。
言葉を口にすると運命が変わる、良い言葉を言えば良いことが起きる――
そうした説明だけを見ると、科学的ではないと感じるのも自然です。
けれど、もともとの言霊は、魔法のような話ではありませんでした。
昔の人々は、言葉が人の心や行動、場の雰囲気に影響を与えることを、理屈ではなく経験として知っていました。
強い言葉が人を奮い立たせることもあれば、深く傷つけることもある。軽い一言が、思いがけず長く心に残ることもある。

その「目に見えないけれど確かに働くもの」を、当時の言葉で「霊」と表現した。それが「言霊」という言葉だったのだと思います。
現代の心理学も、言葉が自己認識や行動に影響を与えることを示しています。「セルフトーク」や「アファメーション」といった概念は、言霊が経験的に捉えていたものを、別の角度から説明しているのかもしれません。
言葉の扱い方への態度だった
言霊とは、「言葉には力がある」という主張というより、言葉をどう扱うべきかという態度だったのではないでしょうか。
だから日本語では、次のような表現が育ってきました。
- 言い切らない(「〜かもしれない」「〜と思う」)
- 余白を残す(行間に意味を委ねる)
- 音や響きを大切にする(「やわらかい」「やさしい」の音の違い)
言葉は便利な道具であると同時に、人や関係を壊してしまう可能性も持っている。だからこそ、慎重に、丁寧に使う。
言霊という言葉には、そんな日本語の姿勢が凝縮されているように感じます。
たとえば俳句は、わずか十七音で世界を切り取りながら、あえて説明しきらない。読み手に想像の余地を残すことで、一つの句が何通りもの風景を生み出します。この「言わないことで伝える」技術こそ、言霊の精神が生んだ表現文化ではないでしょうか。
言葉が、時間を超えて届く世界
かつて言葉は、その場で響き、その場で消えていくものでした。
相手の表情や声の調子を感じ取りながら、誤解があればその場で言い直すこともできた。
けれど今、私たちの言葉は、時間を超えて届くようになっています。
SNSやブログに書かれた言葉は、いつ、誰に、どんな気持ちで読まれるのか分かりません。

書いた直後に読まれることもあれば、数年後に誰かが検索で見つけることもある。疲れ切った深夜に読まれることもあれば、希望に満ちた朝に目にされることもある。同じ言葉が、読まれる状況によってまったく違う意味を持ってしまう。
言葉は一度置かれると、書き手の手を離れ、時間差で読み手に届いていきます。
この環境では、読み手が意味を完成させる力が、とても強く働きます。未来の誰かが、どう補完するかを想像して言葉を置く――そんな意識が、これまで以上に必要になっているのです。
書き言葉には設計の時間がある
ただし、この変化は不利なことばかりではありません。
話し言葉は、その場の流れで発せられます。一方、書き言葉には、立ち止まる時間があります。
- どの言葉を選ぶか
- どこで言い切るか
- どこに余白を残すか
- どんな前提を共有しておくべきか
そうしたことを、考える時間がある。
SNSは、言葉を雑に使う場所ではなく、本来は最も丁寧に言葉を扱える場所でもあります。
これは言葉遊びではありません。自分の意思を、誤解されにくい形で他者に伝えるための、言葉の設計です。
たとえば、こんな違いがあります。
「この映画、つまらなかった」と書くのか、「自分には合わなかった」と書くのか。前者は断定的で、他者の感じ方を否定するように受け取られるかもしれない。後者は主観を明示することで、異なる意見との共存を可能にします。
この数文字の違いが、読み手の受け取り方を大きく変える。それが、書き言葉の設計です。
だから今、日本語を使いこなす技術が価値を持つ
今の時代、効率的で論理的な言葉は、AIがとても得意としています。
要点を整理し、誤解なく伝えることは、これからますますAIが担っていくでしょう。
だからこそ人間には、別の言葉の役割が残されているように思います。
それは、意味を一つに固定せず、読み手の中で育つ余地を残す言葉。
日本語は、一つの言葉や音に、さまざまな想いを重ねてきた言語です。その感性は、SNS時代において、新しい価値を持ち始めているのではないでしょうか。
AIが生成する文章は正確で明快ですが、時に「完璧すぎて息苦しい」と感じることはないでしょうか。人間の言葉には、迷いがあり、ためらいがあり、言い淀みがある。その不完全さこそが、読み手に「自分で考える余地」を与え、深い共感を生むのかもしれません。
今日から始められる、言葉との向き合い方
では、私たちは具体的にどうすればいいのでしょうか。
完璧を目指す必要はありません。ただ、少しだけ立ち止まってみる。
- 投稿ボタンを押す前に、一呼吸置いてみる
- 「絶対」「必ず」といった断定表現を使う時、本当にそれが必要か考えてみる
- 誰かの言葉に傷ついた時、相手がどんな状況で書いたのか想像してみる
- 自分の言葉が、どんな人に、どんな時に読まれるか考えてみる
こうした小さな習慣が、言葉との関係を少しずつ変えていきます。
これから言葉と付き合っていく私たちへ
言葉は、世界を理解するための道具であり、理解したものを他者と分かち合うための橋でもあります。
だからこそ私たちは、言葉をどう使うかによって、自分自身のあり方も、少しずつ形づくられていく。
SNS時代、AI時代を生きる今、あらためて立ち止まって考えてみたくなります。
私たちは、これからどんな言葉を選んでいくのだろうか。
その選択は、私たち一人ひとりの手に委ねられています。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。この記事が、あなたと言葉との関係を見つめ直すきっかけになれば幸いです。