エッセイ・思考

空海と日蓮――方法は違っても、見ていた地平は同じだったのではないか

世界では、再び戦争が現実のものとして語られるようになりました。
ニュースやSNSを見ていると、
正しさを主張する言葉が以前よりも強く、鋭くなっているように感じます。

正義は必要です。
しかし、正義が一つの形に固まったとき、
対話が消えてしまうことも、私たちは歴史から学んできたはずです。

今、なぜか私は、
日本の歴史の中で語られてきた二人の僧――
空海
日蓮
のことを考えています。

穏やかな空海と行動しなければならなかった日蓮の対比イメージ

一見すると、まったく違う人物に見える二人ですが、
本当にそうだったのでしょうか。


私自身の立ち位置について

私は、日蓮系の思想に触れながら生きてきました。
その中で多くの学びもありましたし、
同時に、強い違和感を覚え続けてきた部分もあります。

とくに、
他宗を敵として位置づける態度には、
今の時代において強い抵抗を感じてきました。

それは否定したいからではなく、
「この方法は、今も本当に人を救っているのだろうか」
という問いが、どうしても消えなかったからです。

この文章は、
誰かを説得するためでも、
立場を守るためでもありません。

私自身が考え続けてきたことを、
一度、言葉として静かに置いてみたい――
そのために書いています。


空海と日蓮――対立する思想家、という見方の違和感

空海は「包み込む人」、
日蓮は「叫ぶ人」。

次代の違いによる表現方法の違いを表したイメージイラスト

歴史の教科書や一般的なイメージでは、
二人はしばしば対照的に語られます。

確かに方法は違います。

  • 空海は、言葉を尽くしながらも、言葉に縛られなかった
  • 日蓮は、強い言葉で人々を揺さぶった

しかし、少し視点を変えると、
二人が見ていた地平は、驚くほど近かったのではないかと思えてきます。

それは、

人が「考えること」をやめてしまう世界を、
何としても避けたい

という一点です。


日蓮の時代――なぜ「受け身」が危険だったのか

日蓮が生きた鎌倉時代は、
飢饉、疫病、災害が繰り返される、極めて不安定な時代でした。

日蓮が生きた時代の日本の様子を描いたイメージ

「末法」の思想が広がり、
多くの人が、

  • どうせ何をしても無駄だ
  • 信じてさえいれば、あとは救われる

という、ある種の思考停止状態に陥っていた。

日蓮が最も恐れたのは、
苦しみそのものではなく、
人々が自分の生き方について考えることをやめてしまうこと
だったのではないでしょうか。

だから彼は、
穏やかな対話ではなく、
あえて他宗を厳しく批判するという方法を選びました。

この方法は、
現代の感覚から見れば、
あまりにも攻撃的です。

そして私は、
このやり方をそのまま肯定することはできません。

それでも、
「なぜ彼はそうせざるを得なかったのか」
という問いを抜きにしてしまうと、
日蓮の思想の核心も、見えなくなってしまう気がするのです。


空海が選んだ方法が機能した理由

一方、空海の時代は、
比較的安定した政治状況の中にありました。

文化を育て、
技術や思想を伝え、
人がゆっくり学ぶ余地があった。

だから空海は、

  • 教えを押しつけず
  • 言葉を尽くしながらも、沈黙を恐れず
  • 世界はすでに尊い、という視点を示す

という方法を取ることができた。

同じ仏教思想であっても、

非常時には「刃」となり、
平時には「器」となる

そんな違いが、
二人の行動の差として現れたのではないでしょうか。


共通して大切にされていた「身・口・意」

空海も日蓮も、
共通して重視していたものがあります。

それが、
身(行動)・口(言葉)・意(心)
という三つの在り方です。

空海と日蓮に共通する3つの大切なもの身口意を表したイメージイラスト
  • 何を信じるか
  • どの宗派に属するか

よりも、

どう生き、
どう語り、
どんな動機で行動するか

こちらの方が、はるかに重要だと考えていた。

思想とは、
他人を変えるための武器ではなく、
自分自身の振る舞いを整えるためのもの
だったはずです。


正しさが、戦争に近づく瞬間

歴史を振り返ると、
戦争はいつも、

  • 強い正義
  • 分かりやすい敵
  • 考えなくていい答え

とともに現れます。

しかし、

理解も納得も、他人の内側でしか起きない

この事実を忘れた瞬間、
言葉は対話ではなく、
強制に変わってしまう。

日蓮の言葉が、
時代を超えて危うくなるとすれば、
それは「非常時の方法」を
平時にそのまま持ち込んでしまったときなのかもしれません。


いま、私たちはどこにいるのか

世界は不安定です。
戦争は、遠い出来事ではありません。

だからこそ、
再び「考えなくてもいい正しさ」を
求め始めてはいないか――
私は自分自身に問い続けています。

行動しないことは、
無関心ではありません。

声高に叫ばないことは、
逃げでもありません。

問いを持ち続ける事が出来る限り希望はあることを発信するイメージイラスト

考え続けることそのものが、
行動になる時代もある

そう信じたいのです。


結びに代えて

空海と日蓮は、
違う言葉を使い、
違う方法を選びました。

けれど、
人が人として生き続けるために、
「考えること」を手放させなかった
という一点において、
二人は同じ方向を見ていたように思えます。

未来がどうなるかは、分かりません。
戦争がなくなる、とも言い切れません。

それでも、

考え続ける人がいる限り、
未来は一つには決まらない

私は、そう思っています。

私たちは今、
どんな言葉を選び、
どんな沈黙を守ろうとしているでしょうか。

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