エッセイ

なぜ日本で猟銃の担い手が減っているのか

許可制度の構造から見える社会の現実

熊の出没と人的被害が増え、「駆除」という対処が現実に選ばれる場面が増えています。
しかし、その現場に立てる人は年々減り続けています。
日本では猟銃を持つことは単なる免許ではなく、長い審査の末に社会から“信任”された人だけに許される行為です。
その担い手が減少していることは、単に銃を扱える人がいないという問題ではなく、
危険に向き合う役割ごと社会から失われつつある、という構造的な変化を意味します。


熊が人の生活圏に現れはじめた現実

ここ数年、山にだけいたはずの熊が、町の中へ姿を現す光景がニュースに映るようになりました。
「出没」という言い方はどこか穏やかに聞こえますが、実際に起きているのは、人と獣が生活空間で真正面から鉢合わせする出来事です。人的被害も増えてきました。

不思議なことではありません。
山は静かに変わりつつあります。
人が山に入らなくなり、里山の管理が行き届かなくなり、動物たちが餌を求めて境界を越えてくる。
自然は、人間が管理をやめた場所からじわじわと形を変えていくものです。

問題は、その「変化」に社会の側が追いついていないことです。
熊が町に姿を見せたその瞬間から、社会は必ず選択を迫られます。
それは目をそらしているあいだにも、静かに進行している現実です。


駆除が選ばれる社会的背景

熊が生活圏に姿を現したとき、社会は大きく二つの道を考えることになります。
ひとつは、人間の側が生活圏を変えること。
もうひとつは、出てきた熊を排除すること。すなわち駆除という選択です。

前者は理想的に聞こえますが、現実には容易ではありません。
学校の通学路を変える、住宅地を移す、農地を放棄する──どれも生活の根幹に触れます。
結果として後者が選ばれる場面が増えます。
「仕方なく駆除する」という言葉が使われるのは、誰もそれを望んで喜んでいるわけではないからです。

しかし、ここで大切な点があります。
駆除という選択肢は、「引き金を引ける人がいる」 という条件が成立してはじめて意味を持ちます。
その役割を担う人がいなければ、議論だけが残り現実は動きません。

そしていま、その「担い手」が減り続けています。


しかし引き金を引ける人が減っている

ここでひとつ、多くの人が気づいていない現実があります。
「熊が増えている」ことより深刻なのは、「熊に対処できる人間の側が減っている」 という事実です。

猟銃を所持するまでには、
時間、手間、費用、心理的負担、そして社会的責任を背負う覚悟が求められます。
それは「できれば誰も通りたくない」ほど重いハードルです。

だからこそ、そのハードルを超えて銃を所持している人たちは、
単なる趣味人ではなく、社会から「危険な役割を預けられた人」です。
しかしその人々が今、静かに少なくなっている――
にもかかわらず、この問題はほとんど議論されていません。


日本の猟銃所持は「免許」ではなく「信任」である

日本で猟銃を持つということは、
国家と社会から “この人間なら託してよい” と信任されることに近い行為です。

・暴力歴や犯罪歴の確認
・医師による診断
・薬物や依存症の有無
・家族構成や生活環境
・安全に扱える技能
・銃と弾薬の厳格な保管設備
・近隣・同居人への聞き取り

審査されているのは「銃」ではなく、その人間の総体 です。
そしてそれは「必要な人が限られているからこそ預けられる」性質のものでもあります。


制度がここまで厳しくなった歴史と社会的合意

猟銃制度は最初から厳しかったわけではなく、
事故や事件が起こるたびに「一段ずつ積み上げられた仕組み」です。
つまり今の厳格さは、犠牲の歴史の上に成立している安全 と言えます。

日本社会は「誰でも銃を持てる社会」ではなく
「極限までハードルを上げた社会」を選択してきました。
それは長く維持されてきた合意でした。

しかし今、その合意が作られた時代と現実がズレ始めています。
熊は近づいているのに、担い手は減っている ―― その矛盾です。


担い手減少がもたらす未来の構造的リスク

担い手不足とは、“まだ余裕がある段階” の問題ではありません。
ある臨界点を超えると、社会は対処能力そのものを失います。

・通報しても出られる人がいない
・高齢化で動ける人が限られる
・一部の人に負担が集中し疲弊する
・やがて役割ごと消える

社会は大きな音を立てずに壊れます。
「誰かがやってくれている前提」が崩れた瞬間に、人は初めてそれに気づきます。
しかしその瞬間は、たいていもう遅いのです。


賛否より先に「制度を知ること」が必要な理由

制度の重さを知らないまま
「もっと規制すべき」「駆除すればよい」と語ることは簡単です。
しかし、実行する人間の層が消えた社会では、その議論は成立しません。

制度を知ることは、
銃を持つ人のための知識ではなく
社会の合意を形成するための前提 です。

理解のない議論は、現実から乖離します。
まず地図を持つこと――それが制度理解です。


危険と向き合ってきた人々が消えたとき

社会は「誰かが引き受けている危険」の上で成立しています。
その誰かがいなくなったとき、
社会は機能を一つ失うだけでなく、対応力という資産を丸ごと失います。

不足が可視化されるのは最後です。
熊の出没は表層であって、
深層で起きているのは「担い手の消失」という構造そのものです。


騒ぎではなく、考えるために

危険と向き合う役割は少数の人が引き受けてきました。
その層が静かに減り続けている今、
必要なのは賛否より先に「理解」と「想像力」です。

社会の安全は、
いつも誰かの責任の上に成り立っています。
その誰かがいなくなったとき、
私たちは何を失うのか。

その問いを持つ人が一人でも増えることが、
今いちばん必要なのかもしれません。

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