エッセイ・思考

考える力を静かに鍛える「思考の筋トレ」|一文ショートショートで正解探しの癖を手放す

文章を書いていると、ふと「書けない」という感覚だけが残るときがあります。

ノートかパソコンを前に手が止まっている人が、机に向かって座っている様子を描いた手書き風イラスト。頭の上に小さなもやもやが浮かび、「文章が書けない」感覚と、考えが上滑りするような状態が静かに表現されている。

言葉が出てこないというより、思考が上滑りしているような感覚。何かを考えようとしても、すぐに検索窓に浮かぶようなありきたりな言葉が頭をよぎり、うまく自分の言葉が出てこない。深く考える前に、わかりやすい言葉だけをなぞって、分かった気になって疲れている。

そんな状態になったとき、若いときに読んだショートショートを思い出しました。文章作成を楽しむためにリハビリのように始めたのが、ショートショートです。

「完成」を目指さない書き方

ただ、ここで言うショートショートは、起承転結のある物語を作ることではありません。ましてや、誰かを感動させようとか、上手い表現を使おうとするものでもありません。

ただ、思考を短く切って、そこに置く。

開いた冷蔵庫の棚に、買った覚えのない小さな瓶詰めがひとつだけ置かれている様子を描いた手書き風イラスト。ラベルの文字は読めず、ひんやりとした光の中に、少し不思議で懐かしい空気が漂っている。

冷蔵庫の奥に、買った覚えのない瓶詰めがある。
蓋を開けると、どこか懐かしい冬の朝の匂いがした。
中身は空っぽだったけれど、とりあえずまた蓋をして、冷蔵庫に戻した。


例えば、これだけです。

この瓶が何なのか、なぜそこにあるのか、という理由は考えません。見た景色を切り取る。結末を決めない。オチをつけずに、書き切らないままで終わる。

それは「創作」というよりは、伸び切った枝をパチンと切るような、あるいは散らばった石を一つ拾って眺めるような、日本に昔からあった茶道や華道の動作に近いものです。

余白の多い空間の中で、小さな花器に一輪の花が生けられている様子を描いた手書き風イラスト。床の間のような静かな場に、そっと整えられた枝と花だけが置かれ、茶道や華道のように「ひとつに向き合う」所作が感じられる。

私はこれを、思考の筋トレと名付けました。

誰にも見せないし、評価されなくていい

筋トレである以上、誰かに見せる必要はありません。うまくやる必要もなければ、誰かに読まれて評価される必要もない。

茶道や華道の稽古が、毎回コンクールへ出品するために行われるのではないように、ただその場に座り、手を動かし、時間を過ごす。

今日書いたものが面白くなくてもいいし、意味が通らなくてもいい。書き残しておく場所をひとつ持っておくこと。それが目的のすべてです。

変化は、静かにやってくる

これを続けていて、何かが劇的に変わったかと言われれば、自分でもよく分かりません。

今でも「これでいいのだろうか」と思いながら書いていますし、読み返しても首をかしげるようなものばかりが溜まっていきます。文章が上手くなった気もしません。

ただ、正解を探す癖だけは、少し抜けてきたような気がします

一文だけで、終わってもいい

たまに一文だけ書いて、何事もなくノートを閉じることがあります。

物語は始まらず、何も解決せず、ただ文字が並んだだけ。それでも、その一文を書くために、思考はわずかに動き、心は踊りました。

開いたノートに短い一文だけが書かれ、そのノートをそっと閉じようとする手が添えられている様子を描いた手書き風イラスト。周囲にはペンが一本あるだけで、余白の多い静かな構図が、「一文だけ書いて終える」満足感と穏やかな余韻を表している。

それで終わりです。


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