エッセイ・思考 テクノロジー / ITとAI

戦争とAIに共通する、人類の「確かめたい」衝動

人類はなぜ「やってみなければわからない」と進んでしまうのか

最近の世界を見ていると、私の中で二つの出来事が重なって見えることがあります。

一つは、戦争です。

もう一つは、AIの急速な進化です。

もちろん、この二つは同じものではありません。

戦争は人の命を奪い、暮らしを壊し、取り返しのつかない傷を残します。

一方でAIは、本来は技術であり、使い方によっては人を助ける力にもなります。

それでも、まったく別のように見えるこの二つの奥に、私はどこか似たものを感じます。

それは、人類の「やってみなければ本当のことはわからない」という性質です。

戦争の影とAIの回路模様の間で、光る疑問を確かめるように手を伸ばす手書き風の挿絵。

人は危険を知らないから進むのではない

人類は、危険をまったく知らずに前に進んできたわけではありません。

むしろ多くの場合、危ないことはある程度わかっていたはずです。

それでも人は手を伸ばします。

見えるなら見たい。

できるなら試したい。

本当に危ないのか、どこまでなら大丈夫なのか、自分の目で確かめたくなる。

この性質があったからこそ、人類は多くのものを生み出してきました。

新しい道具も、医学も、科学も、すべてどこかで「やってみる」という一歩から始まっています。

歴史を振り返れば、火を使いこなすことも、蒸気機関をつくることも、最初は「どうなるかわからないが試してみた」という一歩でした。原子力発電もコンピューターも、その根っこには同じ衝動があります。

つまり、

「やってみなければわからない」という感覚そのものは、進歩を支えてきた力でもあります。

火・電球・顕微鏡などの発明をスケッチ風に並べ、試して進歩してきた歴史を表す手書きの挿絵。

しかし、その力はいつも明るい方向にだけ働くわけではない

ここで難しいのは、同じ性質が、必ずしも良い結果だけを生むわけではないことです。

最近のAIを見ていると、その能力は目を見張るものがあります。

便利さも増え、作業の質も変わり、今まで難しかったことが一気に身近になりました。

たとえば今、私たちがスマートフォンで話しかけるだけで、文章を書いてもらったり、翻訳してもらったり、病気の情報を整理してもらえるようになっています。これは、少し前まで「夢のような話」でした。

その一方で、秘密や安全の前提を揺るがすような力も見え始めています。

誰の声でも再現できる技術、顔を別の人に置き換える映像、本人と区別がつかないほど精巧な文章——そういうものが、すでに現実にあります。

顔の輪郭が二重にずれ、吹き出しが重なって見える、真偽が揺らぐAI時代を表す手書き風の挿絵。

それでも開発は止まりません。

危うさが見えているのに、なお進み続ける。

そこには競争もあるのでしょうし、期待もあるのでしょう。

しかしもっと深いところでは、

「実際に進めてみなければ、本当のところはわからない」

という人類の癖のようなものが動いている気がします。

AIの回路模様と戦争の煙を象徴する景色を一本の橋がつなぎ、中央で立ち止まる人物を描いた手書き風の挿絵。

戦争にも、それと少し似た怖さがあります。

もちろん戦争は、AIの開発とは比べものにならないほど重く、残酷です。

だから同じだと言いたいのではありません。

ただ、戦争を始める側や広げる側の中にも、どこかで

「力を加えたら相手はどう動くのか」

「ここまでなら抑え込めるのか」

「限定的にやれば収まるのか」

という、試すような感覚が入り込んでしまうことがあるように見えます。

そこに私は、人類の危うさを見るのです。

人類は賢いから進むのか、それとも止まれないから進むのか

私たちはふつう、進歩というものを前向きな言葉で捉えます。

それは間違っていないと思います。

でも時々、別の見方も必要なのではないかと感じます。

人類は賢いから前に進んでいる——確かにそういう面はあるでしょう。

けれどそれだけではなく、確かめたいという衝動を止められないから進んでしまうという面もあるのではないでしょうか。

未知のものを前にすると、人は落ち着かなくなります。

見ないままでは終われない。

試さないままでは納得できない。

この感覚は、知的好奇心のようでもあり、欲望のようでもあり、時には傲慢にも見えます。

その衝動が文明を作ってきた。

しかし同時に、その衝動が破壊も招いてきた。

そう考えると、人類の進歩には、明るさだけではない影が最初から含まれていたのかもしれません。

本当に問われるのは「できるか」ではなく「どこで止まれるか」

停止線の前で手を上げて立ち止まる合図をする、節度とブレーキを象徴した手書き風の挿絵。

これから先、AIはさらに進化していくでしょう。

軍事技術も、監視技術も、情報解析も、ますます高度になっていくと思います。

人類はこれからも、多くのことを「できる」ようになるはずです。

けれど、そのとき本当に問われるのは、何ができるかではないように思います。

できるようになったとき、どこで手を止められるか——

そこにこそ、人間性が表れるのではないでしょうか。

私たちの世代は、高度経済成長の時代も、バブルの時代も、そしてその後の時代も見てきました。「できる」「儲かる」「強くなれる」という勢いが、気づけば大切なものを傷つけていた——そういう経験を、どこかで持っているのではないでしょうか。その記憶は、今の時代にも通じるものがあるように思います。

知る力が増えた。

見抜く力が増えた。

壊す力も守る力も増えた。

その先で必要になるのは、さらに強い力ではなく、

知った上でどう振る舞うかという節度なのだと思います。

私たちは本当の動機を知らない。けれど構造を見ることはできる

戦争についても、AIについても、私たちはすべての本当の動機を知ることはできません。

表に出る説明だけではわからないことが多すぎます。

ニュースで流れる情報も、AIが生み出す文章も、今は「本当かどうか」を見極めることが難しくなっています。だからこそ、情報をそのまま受け取るのではなく、「これは誰が、何のために言っているのか」と一度立ち止まる習慣が、これからの時代には大切になると思います。

それでも、一つの構造として見えてくるものはあります。

それは、人類が危険を知らないのではなく、危険を知っていてもなお、やってみなければわからないと思ってしまうことです。

この性質は、希望でもあります。

同時に、とても危ないものでもあります。

だから私は、最近のAIの進化と戦争の動きを見ていると、

人類のすごさを感じると同時に、

そのすごさがそのまま危うさでもあることを思わずにはいられません。

おわりに

時代が大きく動くとき、私たちは出来事そのものに目を奪われがちです。

けれど、本当に残しておきたいのは、その奥で繰り返し働いている人間の性質なのかもしれません。

人類は「やってみなければわからない」という力で前に進んできました。

そのおかげで得たものはたくさんあります。

しかし、その同じ力が、ときに取り返しのつかない方向にも働いてしまう。

長く生きてきた私たちには、若い世代が持っていないものがあります。それは、「あの時代の経験」です。何が起きたか、どんな後悔が残ったか、どこで踏みとどまればよかったのか——そういう記憶を持つ世代が、声を上げ続けることにも、意味があるのではないかと思っています。


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