許可制度の構造から見える社会の現実
熊の出没と人的被害が増え、「駆除」という対処が現実に選ばれる場面が増えています。
しかし、その現場に立てる人は年々減り続けています。
日本では猟銃を持つことは単なる免許ではなく、長い審査の末に社会から“信任”された人だけに許される行為です。
その担い手が減少していることは、単に銃を扱える人がいないという問題ではなく、
危険に向き合う役割ごと社会から失われつつある、という構造的な変化を意味します。
Ⅰ 熊が人の生活圏に現れはじめた現実
ここ数年、山にだけいたはずの熊が、町の中へ姿を現す光景がニュースに映るようになりました。
「出没」という言い方はどこか穏やかに聞こえますが、実際に起きているのは、人と獣が生活空間で真正面から鉢合わせする出来事です。人的被害も増えてきました。
不思議なことではありません。
山は静かに変わりつつあります。
人が山に入らなくなり、里山の管理が行き届かなくなり、動物たちが餌を求めて境界を越えてくる。
自然は、人間が管理をやめた場所からじわじわと形を変えていくものです。
問題は、その「変化」に社会の側が追いついていないことです。
熊が町に姿を見せたその瞬間から、社会は必ず選択を迫られます。
それは目をそらしているあいだにも、静かに進行している現実です。
Ⅱ 駆除が選ばれる社会的背景
熊が生活圏に姿を現したとき、社会は大きく二つの道を考えることになります。
ひとつは、人間の側が生活圏を変えること。
もうひとつは、出てきた熊を排除すること。すなわち駆除という選択です。
前者は理想的に聞こえますが、現実には容易ではありません。
学校の通学路を変える、住宅地を移す、農地を放棄する──どれも生活の根幹に触れます。
結果として後者が選ばれる場面が増えます。
「仕方なく駆除する」という言葉が使われるのは、誰もそれを望んで喜んでいるわけではないからです。
しかし、ここで大切な点があります。
駆除という選択肢は、「引き金を引ける人がいる」 という条件が成立してはじめて意味を持ちます。
その役割を担う人がいなければ、議論だけが残り現実は動きません。
そしていま、その「担い手」が減り続けています。
Ⅲ しかし引き金を引ける人が減っている
ここでひとつ、多くの人が気づいていない現実があります。
「熊が増えている」ことより深刻なのは、「熊に対処できる人間の側が減っている」 という事実です。
猟銃を所持するまでには、
時間、手間、費用、心理的負担、そして社会的責任を背負う覚悟が求められます。
それは「できれば誰も通りたくない」ほど重いハードルです。
だからこそ、そのハードルを超えて銃を所持している人たちは、
単なる趣味人ではなく、社会から「危険な役割を預けられた人」です。
しかしその人々が今、静かに少なくなっている――
にもかかわらず、この問題はほとんど議論されていません。
Ⅳ 日本の猟銃所持は「免許」ではなく「信任」である
日本で猟銃を持つということは、
国家と社会から “この人間なら託してよい” と信任されることに近い行為です。
・暴力歴や犯罪歴の確認
・医師による診断
・薬物や依存症の有無
・家族構成や生活環境
・安全に扱える技能
・銃と弾薬の厳格な保管設備
・近隣・同居人への聞き取り
審査されているのは「銃」ではなく、その人間の総体 です。
そしてそれは「必要な人が限られているからこそ預けられる」性質のものでもあります。
Ⅴ 制度がここまで厳しくなった歴史と社会的合意
猟銃制度は最初から厳しかったわけではなく、
事故や事件が起こるたびに「一段ずつ積み上げられた仕組み」です。
つまり今の厳格さは、犠牲の歴史の上に成立している安全 と言えます。
日本社会は「誰でも銃を持てる社会」ではなく
「極限までハードルを上げた社会」を選択してきました。
それは長く維持されてきた合意でした。
しかし今、その合意が作られた時代と現実がズレ始めています。
熊は近づいているのに、担い手は減っている ―― その矛盾です。
Ⅵ 担い手減少がもたらす未来の構造的リスク
担い手不足とは、“まだ余裕がある段階” の問題ではありません。
ある臨界点を超えると、社会は対処能力そのものを失います。
・通報しても出られる人がいない
・高齢化で動ける人が限られる
・一部の人に負担が集中し疲弊する
・やがて役割ごと消える
社会は大きな音を立てずに壊れます。
「誰かがやってくれている前提」が崩れた瞬間に、人は初めてそれに気づきます。
しかしその瞬間は、たいていもう遅いのです。
Ⅶ 賛否より先に「制度を知ること」が必要な理由
制度の重さを知らないまま
「もっと規制すべき」「駆除すればよい」と語ることは簡単です。
しかし、実行する人間の層が消えた社会では、その議論は成立しません。
制度を知ることは、
銃を持つ人のための知識ではなく
社会の合意を形成するための前提 です。
理解のない議論は、現実から乖離します。
まず地図を持つこと――それが制度理解です。
Ⅷ 危険と向き合ってきた人々が消えたとき
社会は「誰かが引き受けている危険」の上で成立しています。
その誰かがいなくなったとき、
社会は機能を一つ失うだけでなく、対応力という資産を丸ごと失います。
不足が可視化されるのは最後です。
熊の出没は表層であって、
深層で起きているのは「担い手の消失」という構造そのものです。
Ⅸ 騒ぎではなく、考えるために
危険と向き合う役割は少数の人が引き受けてきました。
その層が静かに減り続けている今、
必要なのは賛否より先に「理解」と「想像力」です。
社会の安全は、
いつも誰かの責任の上に成り立っています。
その誰かがいなくなったとき、
私たちは何を失うのか。
その問いを持つ人が一人でも増えることが、
今いちばん必要なのかもしれません。